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協同組合鯖江市繊維協会
916-0004
福井県鯖江市糺町32-1-1
TEL.0778-52-1880
FAX.0778-52-9880

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに
1. 絹織物、羽二重
鯖江市の西山公園の中腹に建立(明治31年8月10日)されている機業記念碑には機業記念碑、明治初期から鯖江の機業を育て発展させた人々の熱意が刻まれている。
織物業には重要なものに絹・綿・麻の三者があり、当時組織の強化の必要性を強調し、鯖江織物会員名に酒伊繊維の創始者酒井伊四郎、山仙織物の創始者山田仙太郎をはじめ当時の鯖江の機業を担っていた人々の名前が残されているので、その盛況をうかがい知ることができる。
絹織物業・羽二重製織の発展をみると、明治10年代後半、輸出向羽二重製織の機運が高まり、羽二重の製織は福井市街を中心に郡部にも広がった。これが短期日に羽二重王国の誕生につながっていく。
明治35年(1902)に刊行された『福井県物産誌』には、「製絹業は我が県主要の物産にして其一盛一衰は安危興廃に関す実に絹織物は殆ど我が県の生命と云うも不可なきなり」と記されている。
産業革命として生産環境が変わるのは、明治32年京都電灯株式会社が、同42年越前電気株式会社がそれぞれ水力発電所を完成させたことに伴い手織機から力織機が導入されてからだ。明治40年代、現鯖江市管内ではいわゆる「産業革命」が進行していった。これは越前電気からの配電を背景に明治42年から両3年という短期日に起こった。
20・30年代と急成長を遂げた輸出羽二重業は、40年代に停滞期を迎えた。原因は粗製乱造と精錬上の欠陥、賃金上昇によるコスト高、ヨーロッパの政治情勢の悪化及び需要の減退、欧米諸国での力織機導入による絹織物業の発展など、内外の問題が山積していた。
コストダウンの切り札として力織機が競って導入されるが、1人の織工が複数の力織機を受け持つ(手織機は1人1台)ことが出来ることと織上高の向上で、織工余り・生産過剰・零細機業家の廃業などの現象が起こった。停滞傾向は42年に表面化し、本格的回復は第一次世界大戦まで待たねばならなかった。
大正末には今立郡が福井県下最大の羽二重産地となっていった。機業戸数が30%、女子職工が64.4%に激減しているが、全部が賃織と家内工業で工場ではむしろ増加、しかも一工場当たりの織機数も16.1台から32.1台に、女子職工数も15.4人から22.4人に増加している。越前電気の本拠地を反映し、力織機と手織機の位置が完全に逆転し、工場はもとより平均4.2台から6.9台に微増した家内工業でも手織機は払拭されている。また、機械の保守などに携わる男子職工が大幅に増加し羽二重製織の様子は大きな変化を遂げた。

2.昭和初期の絹(羽二重)織物
昭和初期において福井県の絹織物業界は爛熟期を迎えていたが、昭和4年10月、ニューヨークのウォール街での株式の大暴落は経済恐慌を招いた。
県下の絹(平地羽二重)織物輸出業界は大打撃を受け、破産する機業家が続出している。昭和初期には「石田縞」などでも完全に経営不振となり石田縞は内地向け人絹織へと転換した。
昭和4年から20年までの絹・人絹織物の生産推移によって絹織物の不振、衰退を見ることが出来る。この時期鯖江の羽二重業界では、不況の打開策として種々検討はされたが産地の一斉休業を行うより策はなく、県下の状況と同様、絹織物は人絹へと転換を余儀なくされたのであった。

3. 人絹織物
福井県下の慢性的な絹織物輸出不振のなかで、新しい機業「人絹織物業」が普及し、機業家は人絹業へと転換を余儀なくされた。
昭和3年(1928)には県内の人絹糸消費量が生糸を上回るとともに、同5年には人絹織物は県下の総機業戸数、総機台数の半ばを占めるまでになり、輸出人絹織物が輸出絹織物の生産を上回った。さらに同6年になると織物の生産中、絹3割に対し、人絹が7割に達したことから同7年前後には「織物王国」「人絹王国」のことばを生み出している。
戦前における鯖江市域の人絹織物の進展は、昭和12年から14年にかけて最盛期を迎えている。当時の生産品種は人絹の平織りで平、紋、朱子、ジョーゼット、パレス、ボイル、紗、縮緬等が製織されたが、鯖江市域ではビス糸使用の人平物で、平、紋、パレスがほとんどで時を追って増産。その生産額も昭和3年と10年を比較すると金額で20倍以上となっている。
福井県がいわゆる「織物王国」「人絹王国」へと大きく成長・発展していったなかに、鯖江市域には山仙織物と酒伊合同紡績(後の酒伊繊維)という二大織物業者の存在、その果たした役割が大きかったことを忘れてはならないだろう。
■鯖江繊維の歴史ー石田縞の思い出ー平成20年3月 繊維協会刊 より 抜粋