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■どうやって石田縞は織られていたのか。

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機織唄を歌いながら昔の人は自分の家で使う布を織った。機の織れない者は嫁にもいけなかったという。夏のお盆に実家に帰るときは子どもを背負い、戻るときには石田縞で布団を作ってからそれを背負って家に戻ることもあった。昔はそういう暮らしだった。
石田下では、村全体で石田縞や織物を織っていたという印象だ。機織りの手伝いに工場に行って来いとちいさな子が言われ、「おかぁちゃんのおっぱい飲ませてくれたら行く」と駄々をこねたこともあった。女の子は小学校卒業の前に「うちに来てくださいね」と工場の女将さんが挨拶に見え、自分は織子さんになるのだと思っていたという。さらに朝日町からも織子さん達が歩いて通っていた。

 石田縞は下ごしらえの連続の織物だ。糸の先染めであるために、長い間製品として出荷することが出来ないため、財力も必要だった。
 まずチーズ巻きと呼ばれる糸を買うために、組合から発注をかける。その時も、現金取引であるためにりんご箱に現金をつめて発注したこともあるらしい。石田人絹綿織組合は昭和10年(1935)に石田下にできた公民館の1階にあった。(昭和14年という話もある)公民館は6軒ほどの繊維工場が出資して、1階は組合が繊維の検査場として使い2階は、公民館として使用した。
 糸は、兵舎前駅(現福井鉄道神明駅)か、鯖浦線平井駅(現在廃線)に到着する。それを工場の男が荷車や自転車で取りに行く。そのあと、工場の2階でかせくりをして直径30センチほどのかせ糸にする。これは、手伝いに来る子どもや女性の仕事だった。また、ここで染めない部分を作るために糸を縛ってりもしていただろう。
 かせ糸は染め工場に運ばれる。これは、石田下の用水路の上にあった。6軒ほどの工場が共同で立てたもので、最初は専門の職人が居て、各家庭で織られる石田縞の染色も請け負ったという。のちには、工場の男手がそれぞれそこを利用していた。力仕事は男の仕事であった
 糸は釜で一度煮られて油抜きをした後で染められる。染料は武生から購入したという。黒や茶は粉だったが紺はなぜか固形で硬く、金槌で砕いたり削ったりして使用した。体には余り良くなかったようだ。
 大きなお釜がレンガ造りの窯にすっぽりと収められ、職人がその上に立って、棒に通したかせ糸を少しずつ回しながら染めていく。染めが終われば、そのまま用水路で洗った。冬でもシャツ一枚で仕事をするほど熱かったという。
 そのあと、かせ糸の3つか4つをふのり(布海苔)や澱粉粉などの入った桶につけて糊付けをする。そのままでは硬くなってしまうので角材などにたたきつけてほぐしていく。そして工場で干していく。工場には干す場所があった。冬にも干す小屋がありストーブなどをたいて乾かしたという。それで小火などが起きた事もあったらしい。

 染められた糸は糸巻きで小分けにし、色を合わせながら整経して経糸を作る。これは女性の仕事だった。経糸は織機の経巻きに巻きつけられる。
 最後まで石田縞を織っていたという佐々木氏の工場ではバッタン機(あるいは足踏機)をベルトなどで力織機に改造した織機が使われていたため、織機の仕組みはほぼ同じだったようだ。
 整経した経糸は、内職として家にいる年寄りの手によって前に織った分から少し残した経糸に数日かけて結ばれ、筬(おさ)通しされた。それで小遣い稼ぎができた。それを男手で元通りに織機に取り付けていく。
 佐々木氏の工場では全部で6台の石田縞の織機があった。佐々木氏は石油動力で動いていた記憶があるとのことだが、織子をしていた人は電動モーターの動力をベルトでつないでいたという話をしている。これは、他の織物の織機のこともあるのでよくわからない。
 糸が切れるとレバーを緩め、糸をつないだ。一人が2台受け持っている。
 電動モーターにより織機を動かしていたことでこんな話がある。朝のうちは家庭用の電気が流れているが、工場の開始時刻になると石田下の入り口で切り替えがされて、工場用の電流となる。そこでみんな働きにでかけるのだが、夕方になると今度は家庭用に切り替わる。すると工場は動かせないので仕事が終わる。そのため冬になると働く時間が短くなった。

 織りあがった石田縞は公民館へ荷車などで運ばれ、検査員によって検査を受ける。そして、福井の呉服町などへ出荷した。これも荷車などを引いての運搬だったろう。福井へ墓参りに行った人たちが石田縞を買って帰り、お互いの縞を見せ合ったとも聞く。
 検査で2級品となったものは、土地の人が分けてもらって着物や野良着にしたり「木の元行き」といい、2級品を扱う専門業者のところへ売られていた。
 石田縞も、佐々木氏の工場が昭和30年(1955)にレーヨンに変わった時を最後に工場生産はなくなった。最後の頃は、他の工場が石田縞をやめたために残った糸を引き受けたり、山と積まれた布にカビが生えないように積み替えを行ったりした思い出があるという。

■石田縞の復元

 昭和29年(1954)に立待小学校の副読本として『郷土の偉人 石田縞の元祖 高島善左衛門』が立待小学校教員の池田和栄氏によってまとめられた。その読本がきっかけとなり、吉川道江さん、山本かよ子さんがバッタン機で石田縞を再現した。お二人は現在、鯖江市指定無形文化財「石田縞」技術保持者となっている。
 また、長泉寺町の佐々木理恵さんは、仁愛短大時代、当時教授の中野先生から卒業制作のテーマとして「石田縞の復元」を勧められ、石田縞を手掛けるようになった。現在高織機2台と整経機を置いて作業をしており、織られた布は京都などに出荷されている。

 平成21年には協同組合鯖江市世界協会にて「石田縞手織りセンター」が設立された。草木染めで染めた糸を使い、整経をし、手織り機で石田縞を織りあげている。新しい石田縞のデザインをつかっての商品開発などにも力を注ぎ、新しい鯖江のものづくりを目指している。

 
 
 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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