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■石田縞の発達と学校縞

 石田縞は経糸に細い唐糸を2本撚り合わせた双子糸を使い、緯糸に単糸の唐糸を使用したので双子木綿ともいわれている。平織りで、糸を先に染めているためそのまま仕立てられる便利さがあった。染料は藍を中心としたもので、安価と丈夫さで人気があった。
デザインは石田縞独自のものがあり、かなり大胆なものもあったらしい。農民の衣服、農作業着、布団地などに使用されていたが、娘にせまがれた母親が娘を連れて職工のところに注文に行くほど魅力的なものでもあったらしい。
明治33年(1900)頃には、生産額3万反余りの生産に達したが、化学染料への対応が遅れていたこともあり、金融恐慌などの影響も受け大減産となった。そこで石田縞織物工業組合が組織され、明治34年(1901)には朝日村西田中に福井県綿織物同業組合を設立し、大企業からの輸入木綿糸や染料の共同購入、技術改良、製品検査、販路拡大を目指すことになった。
この頃には、力織機の発明もあり、福井の繊維王国を支えていた絹織物工場などで使われていたバッタン機が大量に放出され、家庭に浸透して石田縞にも使われるようになる。

 石田縞は学校の制服に指定され、県下に広がってく。明治24年(1891)に閉鎖された福井師範学校の女子部が明治39年(1906)に再興されるにあたり、木綿の縞袴を制服に採用した。全国でも佐賀女子師範と福井師範女子部の2校のみが採用している。これが石田縞が学校の制服として採用された第1号である。
そして明治後期から大正にかけて福井県下の女学校や小学校の制服に指定される。裁縫学校や処女会と呼ばれた女子青年団、看護婦養成所であった済世館などでも採用されている。大野などの学校に納めるときは、自転車の荷台にくくりつけて泊りがけで納めることもあった。石田縞はこうした固定的な需要もあり、大正10年(1921)には生産高は27万反にも及んでいる。
丹生高等女学校では、石田縞の着物に袴という制服が少女たちの憧れだった。上着の石田縞は冬は黒字に白、夏は白地に黒の三本縞であった。小学校の女教師も同じ石田縞であったことで「先生、先生」と子どもたちに言われて誇らしい気持ちになったという。修学旅行などでは、木綿を恥ずかしく思うもの、誇らしく思うものとさまざまだったようだ。

 しかし、昭和になるとより活動的でモダンなセーラー服への切り替えが始まり、石田縞は固定されていた需要を失うことになる。
また、大正期になって力織機を備えた工場により綾木綿・綿繻子・縮・金巾・天竺木綿など広幅ものの生産が勃興し、小幅も蚊帳地の生産が始まり石田縞の地位が低下していく。そして服装が洋服へ変ったことなどで石田縞の需要は急速に縮小、さらに昭和12年(1937)の日中戦争以降の国家総動員法などで統制が加えられた繊維産業の弱小企業が切り捨てられていく。その結果、家内工業的な小規模経営では立ち行かなくなった石田縞は、まず朝日村から姿を消していき、工場生産している石田下に生産の中心は移行していく。そして、生産される繊維は効率の良い人絹などに切りかわり、石田縞は徐々に姿を消していくことになる。

 
 
 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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