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■福井・鯖江の木綿と縞織物

 綿が栽培されるようになったのは戦国時代からだといわれる。越前ではやや遅く、元禄時代に普及したようだ。綿は、病害虫に弱く収穫時期の天候に大きく品質が左右されるが、稲作よりもはるかに収入の大きなものであった。丹生郡天王村の神官高橋勝安が寛保2年(1742)に書いた農書『農作覚書』では栽培にあたっての注意書きがみられ、自給用よりも商品生産を目的として栽培していることが分かる。
福井では木綿の原料、製品については藩から特権を与えられた丸岡・三国の商人が実権を握っていた。天保9年(1838)には岐阜に産物会所を設けてかせ糸の販売に力を入れている。
鯖江藩では、天保13年(1842)に産物会所を設け、布や木綿を他には売らぬこと、必ず藩の免札所持の仲買・問屋に売ることを厳命している。鯖江藩は糸ではなく木綿織物の販売を目指していた。この時の生産高は6000反。代金にして千両と見積もられている。

 縞織物は2種以上の木綿の色糸を縦(経)または横(緯)、さらに縦横に入れて筋を表したデザインの織物で、縦縞、横縞、格子などがある。インドの縞織物が南蛮貿易で注目されていらい、中国・東南アジア産のものを「桟留縞」「唐縞」「唐桟」と呼び、下級武士や町民にとても人気があった。
人気の縞織物は模倣され、京都の西陣や「京桟留」と呼ばれる「管大臣縞」が織られた管大臣町が国内製造の中心となった。しかし、京都大火によって技術者が移住し、西濃・尾西が大産地として発展していく。文政期には関東の結城縞も織られるようになった。

■石田縞はどうして誕生したのか

 石田は昔、洪水のたびに田畑が石の野原になってしまうので「石田」と呼ばれたという説がある。明治25年(1892)に立てられた「石田縞祖高島善左衛門翁碑」の碑文によればその石田に住む貧しい村人を救うために江戸時代の文政年間、高島善左衛門が奮起し、縞織物の盛んな美濃で織物を習い、職工を招いて工場を建てた。これが石田縞の始まりとしている。
高島善左衛門の住む石田下は、幕府直轄地(天領)であった。明和4年(1767)の頃より飛騨国高山郡代の所属となっている。美濃には越前の木綿糸が納められていることもあり、意外なつながりがあったのかもしれない。この時代には稲作とは別な収入源を求めて特産物を作ることは、日本全国で行われており第2の町民文化が花開いた。高島善左衛門もそうした熱い想いがあったのかも知れない。

 その頃の織物は、各家庭で自分たちが使う分を農閑期にイザリ(居座り)機で織っていた。経糸を腰で引っ張る構造のため織りにムラがでてしまう。しかし、高島善左衛門が導入したのは最先端の高機と呼ばれる手織り機ではないかと思われる。美濃より生産方法を学び、あるいは職人を連れてきたのならば全ての方法を美濃と同じにようにする必要があったのではないだろうか。
  後年出版されたの『公益国産考』では、『桟留縞の導入をするには尾州より「織女」2名、染物・糊入れ一人を「師匠」に雇い、「織殿」(工場)を設置し、織物希望者を募り技術を取得させた後に織機とかせ糸を貸し出して、糸代と織機の貸し出し代を差し引いて買い取るとよい』とという記述がある。実際に高島善左衛門の末裔である高島義男氏によれば、高島家に伝わる染と糊の技術は一子相伝だったという。高島家が「師匠」の役を担ったとすれば、美濃の製造方法をそのまま取り入れたと考えたほうが自然だと思える。
  高機は経糸を機械に固定するため製品にムラが出にくく、イザリ機では1反を織るのに3日かかるのに対し、高機では1日に1反が織ることができる。工場として生産性を上げ販売できる量が流通しし、他の地元の縞と違いきれいに織れていることで「石田縞」のブランド名が生まれたのではないだろうか。
  明治頃に朝日村の気比庄ではイザリ機で石田縞を織ったという話もあることから、広く石田縞が織られるようになった頃は、石田で織られた縞に似た木綿の縞織物全体をを石田縞と呼ぶようになったのではないだろうか。石田縞は石田下を中心とした高機による工場生産に始まり、一般家庭でのイザリ機で織られ広まっていったと考えられる。
  石田縞が初めて文献に出てくるのは、万延元年(1860)11月に、幕府領気比庄村、下川去村など13か村が鯖江藩に領地替になったときに起こった反対運動の訴状の中である。農業だけでは暮らしが困難であるので、農閑期に石田縞を織っているという記述がある。(朝日町気比庄 山本家文書)
  高島善左衛門が美濃から製法を学んでから約40年で、石田縞の生産は地方の副業として広がっていたことがうかがえる。

 
 
 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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